な〜は行の日本の名画家



な行の名人


は行の名人




長谷川等伯(はせがわとうはく) 
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1539―1610



 この度没後400年を記念して大展覧会が開かれたばかり。
いまや戦国絵師の代名詞となった感のある長谷川等伯は、能登の七尾の生まれ。
信長公の日本全土を巻き込んだ日本回帰大作戦の末端に位置する
戦国大名畠山氏の下級家臣の子として生まれています。
狩野永徳が4歳年下。海北友松(かいほうゆうしょう)が6歳年上。
この三人のライバルは安土城を始めとする築城ラッシュの時代に、
城内の装飾を一手に引き受け大きな足跡を残したのでした。

 とは言え、等伯はいつも後手に。年下の永徳には追いつけなかったのでした。
実力は上だが、身分制度の社会、受け入れられるまで時間がかかったのです。
等伯と名乗る前の名作に武田信玄像があり、
甲州の覇者として天下さえ覗った重々しい風貌を良く伝えています。
40台前半で雪舟等楊の等の字を頂いて等伯と号するようになったらしく、
メジャーには成れないものの気概だけは実力そのままであったようです。

 安土城も大徳寺も、大阪城も狩野派にまかされていて、
等伯の出る幕はありません。仙洞御所造営の話がおこり、
今度こそ、と運動して、お役が回ってきたと思いきや、
それも永徳父子に阻止され仕事を奪われてしまったのです。

 能登の下級武士に生まれた後、染色業の長谷川家の養子となり
養父母が亡くなって家業をたたんで一家で上洛し、都で一旗挙げようと言う野心は、
なかなか日の目を見ることが出来なかったのです。
それでも堺の町衆との接点が生まれ茶会のサロンで千利休と出会った事が、
大きな転機となりました。大和絵を踏まえ室町漢画や宋元名画の研究を通して
日本画の王道を独自に歩んでいた等伯と、
自己の茶の世界は一歩も譲らない茶人利休の芸術意識とが、
共感しないはずはありません。

 後に秀吉によって殺された利休は、等伯の偉大さを良く知る
たった一人の理解者であったのかもしれません。
等伯もまたこの人には素直になれたのだと思います。
共鳴しあった魂は増幅されお互いのレベルを高めあったことでしょう。
その高い才能ゆえに、周囲の理解の範囲を超えていた不遇な等伯は
ここでようやくチャンスを得たのでした。

 当時、覇者秀吉は唯一の跡取りであるはずの鶴松を3歳で失っていました。
この傲慢で残酷で陰険な独裁者は自分の子にだけは人一倍人間味を露骨に示し、
その菩提を弔うための大寺院を建設すると言い出したのでしす。
この障壁画を等伯に描かせることを利休はどんなに喜んだでしょう。
自分の芸術観を具現してくれるであろうこの絵師が
たとえ愚かな暴君のためにでも、少なくとも芸術の真実を表現することで
人生の真実をも具現してくれると信じていたからです。

 水を得たように等伯は利休の期待に堂々とこたえています。

 現在この寺は焼失、残念ながら焼け残った僅かの作品が
智積院障壁画として国宝指定を受けています。
単なる装飾にとどまらず、自然の風物から直接受けた感動を
余すところなく金壁障壁にたたきつけたような迫力と深い味わい。
しかも有り余る才能をそのまま受け継いだ息子久蔵の作品も加わって、
もし、この寺すべてが今に伝わっていたら、
等伯の名声は雪舟以上だったかもしれません。

 ところが暴君はまたまた人の一生を無残にも引きちぎるのです。
文禄2年6月15日、襖絵完成直前26歳になる息子久蔵は秀吉によって
殺されてしまいます。自己の将来を託すに余りある力量をまの当たりに見、
人一倍詩情豊かな等伯が、わが息子を理不尽にも失った時、
その哀しみの慟哭は如何ばかり。

 畢生の名作『松林図』は、運命の皮肉に向かって
悲しみの涙尽き果てた底より起こる慟哭の烈情。
そこからほとばしる切々たる至情のどうにもならない訴えと言えるでしょう。
霞に隠れる松林ではなくて、涙にかき消えた松林なのです。
胸を切り裂くような筆線。止めどもなくあふれ出る涙に咽び続けた末の
断腸の思いそのものが、画面を支配しています。

 72歳、老境に入った等伯は江戸幕府に呼ばれ江戸へと旅立ったその途中、
病を得てその生涯を終えました。




速水御舟(はやみぎょしゅう) 
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明治27年1894年、東京浅草生まれ〜昭和10年1935年享年41歳
 

《御舟の言葉》 
「技法の究極は無色透明だと思う。
いささかでも他色があれば自己の真意を伝えるのに禍となる。
我々画道の学徒は種種の技法を習得し、而して
次第に脱落させー無色透明にかえった時技法の真諦に逢着する。」

「技法は水のように極めて癖の無い流動体の如く、
時に応じて、変化自在でなければ成らない。」

「私は夜明け前、ただ一人佇んで清浄な蓮の開花の音も聞いたが、
しかし、自分が求めたような自然の秘奥にある無限の深さを持った美は
把握できなかった。それから数年後に、
一つの花の写生を克明にしてみてはじめてかかる微妙なものにさえ、
深い美が蔵されていることを発見して密かに感嘆した。
げに絵画こそは、概念から出るものにあらずして、
認識の深奥から情熱が燃え上がって、初めて造りえらるる、
永遠に美しき生命の花であろう。」

「夜寝る前に、これから書こうとするものについて様々なことを空想してみて、
あくる朝になったらすぐにも描いてみようなどと、
その時は感激する事も度々ありますが、それが不思議にも、
朝になってから考え直してみると、大抵は「愚にもつかぬもの」です。
そんな空想のなかで出来たものを実際に書きとめたのは一度か二度で、
頭の中でばかり、夢のようにまとめたものは何の役にも立っていません。」

「主観ばかりの主観では、どうもだめな気がします。
客観を通した主観でなければ、と言う気がします。ただし、
絵は議論ではありません。画家は黙っていて絵さえ描いていれば
それでよいと思っています。
芸術家は芸術を作りさえすればよいのであって、
芸術を論ずる方面の事は、人任せにしておいて良いとおもいます。
私たちは、口を動かさないで、目に随って手を動かしていれば良い
とおもいます。」、、、、、、、、、。



いみじくもご本人が語るとおり、無駄な事は語らず、
絵を描き続けた御舟でしたが、
残された言葉の中に珠玉のようなキラメキがあるので、
後輩の我々も、そして御舟を愛するすべての人々達にも、
とても強く印象に残るのです。

実際、40歳と言う若さで亡くなるまで、ど正面から、物事を見つめて、
自分自身の内なる声に随って、会得した並外れた、技のみによって果敢に、
表現しようとする姿勢は、誠に景仰すべきものがあります。

好き嫌いは勿論仕方の無い事ですが、物の本質を、捉える力を
なるべく正直に出そうとした天才でした。
それが、所謂、臭みとなる場合もあるのですが、それは、若さ故。
円熟と言う事を望めない年齢で亡くなったのですから、
惜しまれこそすれ、非難には値しないでしょう。

“名樹散椿”が、重文指定され、“炎舞”も素晴らしいですが、
私がこの大天才の代表作と思うのは、“翠苔緑芝(すいたいりょくし)”
と名付けられた四曲一双の屏風。ウサギの可愛さココに極まる作品です。

生まれが浅草の質屋さんであり、後に銀行業に発展したと言う実家
である為、でしょうか?早世した後、御舟の作品は、残された家族にとって、
唯一の財産でした。ご本人にはそんなつもりは無かったのでしょうが、
今でも、この名人の作品が、換金性が高く、財産としての絵画。
と、認識され易いのは、その辺に理由があるのかもしれません。
彼の性格からして、金高の上下で自分の評価が成されるのを、
決して良しとしてはいないのではないか、と、思われるのですが??
  




菱田春草(ひしだしゅんそう) 
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明治7年 1874年長野県飯田生まれ、明治44年没 享年、満36歳





春草とその家族


明治31年、1898年、7月、超超超!!、大天才、菱田春草満24歳の時。
  旧、萩藩士、野上宗直の長女、千代は、この不世出の大天才と結婚しました。
   大天才とは言えまだその頃の春草は、勅命によって設立された、
東京美術学校第二回生として、ダントツの優秀な成績を納め、
岡倉天心始め周囲から大いにその未来を嘱望されていたものの、
定職も無く、並外れた高い理想だけしか持ち合わせなかった、か細い一青年でした。
以後十数年、僅か満36歳で病没するまで、日露戦争を挟んで、 まさに激動そのものの時代に、千代は、春草の愛児四人を産み、育て、
常に留守勝ちであって、収入も途絶えがちな家計をやりくりし、
子を守りつつ、この大天才の支えとなったのです。

   気骨のあることでは指折りの萩藩士の家庭に生まれたこの千代が、
当時どういう心境であったか、もう聞くすべはありませんが、
家庭の主婦として、誠に薄幸な日常を重ねたのではないかと愚考するのです。

もっとも時代背景が今とは全然違っているので、国を挙げての国難に
すべての人が立ち向かわなければならない時でしたから、千代の苦労ぐらいは
皆が味わっていたのかも知れません。

結婚後数ヶ月、谷中初音町の新築された、美術院公舎に居住したので、
滑り出しはまずまず。研鑽を積んで各種展覧会に出品を重ねる夫、
春草の描く作品が売れさえすれば良かったのです。
が、空しくも、彼の革新的な画風はまだまだ時代が受け入れてくれず、
朦朧派などと揶揄され、まして、日露戦争へと突入してゆく前夜とも言うべき時。
おいそれと楽な暮らしが出来るはずはありません。

明治33年9月、早くも長女を授かり、喜びに沸き返るのでしたが、あっけなく病没。
次いで、明治35年1月、長男が産まれます。
夫春草は、相棒 大観と相談して初の外遊の計画を始めます。
家計のやりくりもおぼつかないのに、夫は勉強の為と称して、
驚くべき計画に夢中になっている訳です。
当時の外遊は一大事業。生涯かけた大冒険といってもいいくらいの壮挙でした。
国内ですら、汽車が走っていたのは限られた区間だけであり、
夫の実家長野の飯田に行くのさえ有に4日もかかった時代です。
とにかく家の事はいつも温かい篤志をたたえて、見守ってくれていた、夫春草の兄、為吉、任せ。

この兄は春草にとって得がたい兄でした。若い頃から絵が好きで、
自分も絵の道に進みたかったのですが、家庭の事情で断念。
現在の理科大学を卒業後、教師として師範学校などで教鞭をとっていましたが、
当時皇太子であられた大正天皇陛下の教育係を拝命すると言う俊才であったのです。
愛する弟春草の画家志望を聞いた時
この兄は自身の志望も弟の将来に託したのでした。
東京美術学校入学から卒業まで一切の面倒を見たばかりでなく
生涯、弟春草とその家族とを見守る事になります。

長男が一歳を迎える頃、春草は大観と共にインドへ行ってしまいます。
主たる目的はティペラ国王の宮殿装飾を、
仲介した岡倉天心の紹介で担当する事。でした。ところが、日露戦争直前の事とて、
世界情勢の変化のお陰で、当てにしていたその仕事はパア。
しかし二人はタゴールの援助によって2人展を開催、
現地で描いた作品を元に、幾ばくかの収益をあげて息を吹き返し、
その勢いに乗じてイギリスへ、渡航しようとしましたが
情勢の急変で断念。帰国します。

帰ってきたものの、腰を落ち着けるまもなく今度は
天心に同行して米国へ行くと言うのですから、たまりません。
千代は、3人目の子を身ごもっていたのです。
夫春草は、渡米の為の金策に奔走。思うように集まらないと見るや、
描いた絵を兄に託すのでしたが、一点5円でも売れなかったそうです、、、、
今の5万円くらいでしょうか??? 
 
日露開戦の当日、最後の定期船に乗った2人は、
ちょうど外交交渉で渡米する末松謙澄の一行と同船し、
あの伊藤博文が、見送りに来ていて、悲壮な大演説を甲板で行ったと言うのですから、
まさに激動の時代。
持ち金も少なければ、家においてゆく金もろくに無いのに、、、全く温かい周囲のお陰
としか言いようがありません。千代は目の回る思いであった事でしょう。

渡米するや天心とは分かれて、二人は展覧会を催します。意外や意外、、、
さすが富の国アメリカ。時代も手伝ったのか、驚くほど良く売れて、万歳!!!
美術院の経営のために金を送り、勿論、家にも送り、やっと一息つくことが出来たのです。
春草29歳、大観35歳の事でした。

日本に留まっていたら絶対食い詰めてニッチもサッチも行かなかったでしょう。
まさしく綱渡り、、、、? 絵描きの出稼ぎ、、?しかも外国?

少々余裕が出来た二人はその足でヨーロッパへ。
ずっと羽織袴で通したので、小さくて美青年だった春草は、よく女性と間違われ
そのつど怒っていたそうです。
一年半に及ぶ外遊の後ドイツ船で、イタリアから帰国したのですが、
独ソ和親条約によって船中ではそれはひどい扱いをされました。

ともかく、新生児を抱え、夫の留守を甲斐甲斐しく守るしかすべの無い千代でしたが、
2人は欧米で稼いだ金を元手に、日暮里に家を建てました。
が、その後、やはり絵は売れず、おまけに美術院そのものの経営も破綻して、
なんと、茨城県の奥地、五浦に都落ちするのです。そのときも千代は妊娠中。
三男が生まれたのは8月の暑い頃でした。なんとかやり繰りするものの、
海辺の猟師町なのに、魚が買えないくらい貧乏だったと言います。

そして、夫春草に恐ろしい眼病が襲い掛かります。画家としては、致命的。

さすがそんな田舎にいては治療もままならず、通院のために家族ともども東京に。
でも、病を得ながらも、身近に夫は留まっているし、育ち盛りの息子たちにも囲まれて、
少しばかり千代も家庭の温もりを感じる事が出来たのではないかと思われます。
代々木は今の明治神宮のあたり。まだまだ武蔵野の面影深い、
穏やかな自然に溢れていたのです。家族の温かさに囲まれて、
武蔵野の美しさに誘われて、春草は次々と傑作を生み始めます。

畢生の名作、“落葉”は、ここで産まれたのです。
“黒き猫” “雀と鴉” “早春” 、、、目を患いながらも、
珠玉のような大傑作が、次々目の前で産まれてゆくのを、
毎日心から味わった千代の幸福は、イカばかりであった事でしょう。

歴史上の大金字塔が、来る日も来る日も出来上がってゆく、、、
良く分からなかったかもしれませんが、、? 
夫の病と闘いながらの苦闘に、自分も参加している充実感はあったに違いありません。
私の亭主はホントに良い絵を描くもんだなー、、、。と。

これらの新作は次々に売約がきまり、名声も国中に広がって行き、
ようやく持てはやされてゆくようになります。そして、
借家だった住まいを新築して移転。
じっくり病を癒そうと言う矢先、あっという間に、
夫は、この世のものではなくなってしまうのです。

37歳の誕生日が間近な秋の事でした。 千代と結婚してから、13年目。

大観と共に歩んだ春草の画家としての道は、むごいくらい厳しいものでしたが、
大天才大観が、90の寿を保って達成できた足跡と、なんの遜色もない程の、
高い業績であったといえるでしょう。
勿論、数においては、大観に及ぶべくもありませんが、
むしろ大観より優っていると言っても良いのではないかと思います。
事実大観は、どんなに自分の絵を褒められても、“春草君はもっと上手かった!!
あれこそ金の瓦。磨くほどに輝く。
俺なんか普通の瓦だよ。と常に答えていたそうです。

春草没後、すでに100年、(2011年が丁度100年です)、
その間、画壇は百花繚乱。盛況を呈し、沢山の優れた作家を輩出し、
数多の名作が制作されました。
しかし、それらを、“落葉”“黒き猫”と共に並べたらどうでしょうか??? 
どんなに華やかな作品でも、あの深い深い高き静けさ、の前には、
色あせてしまうに違いありません。
春草こそ、不世出の大大、大名人であります。


“落葉”“黒き猫”そのほか沢山の春草コレクションを大切にしていた、
千葉、流山の資産家 秋元洒汀、は、菱田春草の最大のパトロンでした。


    「菱田春草は、東京での治療が効を奏し、どうにか失明の危機を脱し、
再び絵に精進していた。明治42年(1909)の第3回文展には六曲屏風一双の
『落葉』を出品した。
この作品は同展で受賞し、後に国の重要文化財に指定された。
『俳諧人名字典』(高木蒼梧著)によれば、この作品は、秋元洒汀のために
描いたものであると記述されている。
つづく明治43年(1910)、
第4回文展では、『黒き猫』(柏の幹で、眼をらんらんと輝かせた黒猫がうずくまっている図)
を出品し、表現の優麗さをもって高い評価を受けた。
(この絵も、後に国の重要文化財に指定されている。)
蛇足ではあるが、『落葉』『黒き猫』2点は洒汀の手に入り、
一時期は流山にあったのである。
明治44年(1911)に入ると菱田春草は腎臓炎を再発し、
併発症であった蛋白性網膜炎が悪化して視力を失った。
さらに、不眠症が重なって重体に陥ったのである。
秋元洒汀は、郷社赤城神社へ『赤城明神』の掛軸(前島密に揮毫を依頼したもの)
を奉納して平癒祈願をしたりしたが、
その甲斐もなく明治44年9月16日、
数え年、38歳の若さでその才能を惜しまれながら、生涯を閉じたのであった。

秋元洒汀は、菱田春草の追悼展覧会の幹事役を務めて盛会裡に終らせたが、
菱田春草への追慕の念はそれだけにとどまらず、記念碑の建立費を
全額支出したり、遺族に生活費を毎月送金するなどしていた。」
 と、
ある記録に記されています。また、こういう記述も、、、、。

「菱田春草の死後、秋元洒汀のもとには、菱田千代(菱田春草の妻)を始め、
菱田為吉(菱田春草の兄)や菱田唯蔵(菱田春草の弟)から、
多数の懇ろな謝礼の書翰が送られて来ており、親交の深さを物語っているが、
次に掲げる明治44年5月8日付けの菱田鉛治(菱田春草の父)、
菱田為吉、山田台太郎(親戚)連名の『書翰』には目を見張らせられる。

謹啓、初夏を迎えましたが、御清穆のこととお慶び申し上げます。
過日は、非常なお世話とご尽力をもって、故春草の追悼展覧会を催して頂き、
加えて多大の金子を御恵与下さいました。
おかげ様で遺族の養育の目途もつき、ありがたく感謝しております。
定めし地下に眠る春草も喜び安心していることと思います。
とりあえず簡単な手紙ですがお礼を申し上げます。  敬具
    追伸
行き届かぬ寡婦(春草の妻)のことですが、
子供の教育について心配しております。
しかし、何分にも(私たちが)遠方のため注意もできにくいので、
今後とも遺族をお見捨てにならないで、
お心添え下さるようひとえにお願い申し上げます。
また、先日は私へまでも春草の画集を下さり、
ありがたく感謝しております。
画集は今回の記念として、大切に永久に保存致します。
ついでながら画集のお礼を申し上げます。」



さらに、春草の最高のパトロンは、、、、
なんと、明治天皇陛下だったのです。

明治43年、“落葉”のあと、描いた屏風が、第一席の受賞を獲、
しかも宮内庁お買い上げと成ります。
“雀と鴉”と題された、しみじみと穏やかなこの絵を、
ことのほか御気に入られた明治天皇は、いつも身近にこの屏風を置き。
愛賞さたそうです。
そして、惜しくも亡くなった事をお聞き及びになった天皇は、
翌明治44年、表装競技会に出陳された、明治42年の春草作品を、
なんと1000円の高値でわざわざお買い上げになったのです。
それにより、以後、春草の作品が暴騰し、残された遺族は、大変助かったそうです。
 
明治天皇、崩御の前年のことでした。
 
さて、薄幸の??妻、千代は、どのくらい幸せだったのでしょうか、、?





藤原信実(ふじわらのぶざね) 
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安元元年(1175年)〜文永3年(1266年)以降

 

 冬野にはこがら山がらとびちりてまたいろいろの草の原かな

 如何にもかわいらしいこの和歌は現代人の作と言ってもおかしくないでしょうが、
およそ800年前、鎌倉時代の絵師、信実によるものです。
 こがらも山がらも日本の野鳥。古典和歌で
こんな風に小鳥の生態や冬の草原の彩が歌われるのは珍しく
自然に対する清新な画家の目が生きているのです。
冬の枯野に目立っているものは寒さをものともしない野鳥たち、
その軽快な姿を映し出している背景としての草原もまた、美しい。
と作者は歌ったのでした。
さすが一幅の名画を賞味しているかのような作ではありませんか。

   この人こそ日本画の大先祖様に当たる大変大きな存在なのですが、
横山大観は知っていてもこの信実を知る人はなかなかおりません。
もしご存知でしたらそれはかなりの通といえるでしょう。
源氏物語絵巻の作者・藤原隆能と、春日権現記絵巻の作者・高階隆兼とこの3人は、
日本画の歴史に欠かせない名人なのですが、
日々忘却のかなたへ忘れ去られてゆくように見えます。

 私は幾百年か後に、またその真価が世に流布され、少なくとも大観と同じくらいに
やんやと言われる日の来ることを願っているのですが、
ごく少数の好事家に限ってはいるものの、その価値はまだまだ捨てたものではありません。

 墨と筆と僅かな天然顔料しかなかった時代、
表現の深まり高まりは、偏に線の美しさによる所のものでした。
僅かな鼻息でもあらぬほうへ飛んでいってしまいそうな羽毛を
思いどうりのところへぴたりと着地させたような
繊細かつ確実なこの絵師の線は、向かうところ敵なし。
日本歴史を通じてこの人の描く線に及ぶ人は一人もいないのです。
この絵師こそ究極の名人!!!

 かの女流画家上村松園は、この絵師の線を忠実に学んだことにより
今日のような名声を博したのです。真剣に日本画の王道を歩もうとした絵師は必ず
この信実に一度は私淑せざるを得ないのです。
この人を通らないと日本画は描けない。

 今日日本画と称しているものの殆どは、欧米化した絵画か、
シナを範とした物かどちらかで、本当の日本画はいまや虫の息。
信実、と隆能、隆兼。この三名人を出発点にすればいつだって、
難なく世界に冠たる独自の日本画を生み出せるのに、
それをしない美術教育が間違っているのです。

 佐竹本三十六歌仙図、と言う名品がある。
これこそ信実の代表作で、生まれた当時は絵巻物だった。
ところが近代になって、持ち主が手放すことに。
だが一本の絵巻物のままでは、値が高くて売りさばけない。
涎が出るくらいの名品ゆえに驚くような高値で取引されて来たので、
急に下げる訳にも行かない。そこで当時の富豪たちが相談の上、
歌仙一人一人切り取って、三十六点の掛け軸に表装しなおして、
くじ引きで三十六人で分けようと言う約束になった。
当時の値で一点一億円。それまでの持ち主が管理の難しさを嫌って、
国宝指定をわざと避けてきたという、それほどの品ですから
いわばそこらへんの国宝などと同じにしたくないほどの価値を
皆が認識していたのです。とにかく、国宝指定を受けると
年間何日と言う公開の義務が生じる。そんなことをした日には
それでなくとも痛みやすい鎌倉時代に出来た和紙が
目の前で朽ちて行ってしまうのだから、
ガンとして指定を拒んでいたと言ういわくつきだったのです。

 小野小町がクジで当たった人などさすが大物と言われたくらいでしたが、
ほんとの大物は、勿論作者・信実その人ですよね。

 水無瀬神宮にある後鳥羽天皇像。これが国宝指定の信実作品です。
天皇親政を実現すべく、エネルギッシュに鎌倉幕府と対決して敗れ、
隠岐の島に流された悲劇の天皇像は、その英邁さと深さと大きさと
余すところなく描ききった名作であることは議論の余地はありません。




本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ) 
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永禄元年(1558年)- 寛永14年2月3日(1637年2月27日)



“不二山”、と言う名碗がある。白と黒も鮮やかに、
繊細さと大胆さが精妙に混在し、深々とした景色を誇る。
雪をかぶった富士が、デンとうずくまっているかのような文字どうりの逸品。
光悦が、力を抜いて軽々と愉快に作ってしまった傑作。
娘の輿入れに持たせる為に、ちょっと張り切ったけれど
普段どおりに、二つとない、名碗を作りあげた。

良く知られている、四季草花下絵古今集和歌巻と言う、
宗達描くところの洒脱な花鳥画を背景にして流麗そのものの仮名の書巻がある。
後に光悦流と称されている、独特の文字による造形美は、
極性の結合と言う、日本独自の卓越した造形方法の極みとされるのに、
苦心して書いたとはとても思えない奔放さ自由さに満ち溢れている。

舟橋蒔絵硯箱、と言う蒔絵の箱がある。
高々と盛り上がった箱そのもの得意な意匠と、
鉛、金、銀など、と大胆に組み合わせた。
非凡な意匠とが見事に統一され、奇跡として存在する美の塊を、
これまた、軽々と作りおおせている。

印刷の草分け、嵯峨本は一文字一文字の活字を組み合わせるのではなく、
光悦が書いた縦書き、崩し字の文字を数字(2-3字など)単位で木活字に作り
組み合わせて製版していた。
制作に手間がかかり、また繰り返し版を重ねるには
木版印刷の方が容易であることから、やがて木活字は衰え、
日本の印刷の歴史は活字印刷から木版印刷に逆行するような形となった。
残されている謡曲本を見れば、一目瞭然。
粋で洒脱な光悦のセンスがきらきらと輝いている。

幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、
禿名は林弥(りんや)といった。14歳で太夫になる。
和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、
さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという吉野太夫は、
太夫18人の絢爛豪華な衣装を纏う集いの中、
寝床から寝乱れ姿で出てきた姿にもかかわらず
圧倒的な存在感を放ったといわれるほどの美貌を備えていた。
太夫に代々伝わる名跡“吉野”を生んだのが、これまた、光悦。
後水尾天皇に吉野を引き合わせたのもこの、光悦。
絶世の美女と言う芸術品も楽しんで作ってしまった。

洛北鷹が峰の地を家康から拝領し、さまざまな分野の、
町衆の文化人や職人、芸術家たちを集めて
独自の文化を築きあげる土壌を培った村は、
村そのものが、既に芸術。まるごと村ひとつが、芸術。

日本美術の核心といえるクラスの造形作品をあれだけ沢山残し、
同時代のあらゆる人を啓蒙し、今日尚、その名声は衰えない。
それほどの大名人であるのに実に不思議な事に、
絵画が一点も残されていない。全く不可解です。
筆者自身が画家だからかもしれませんが、公平に言って、
美術文化の中心はどうしても絵画であって、その周辺に彫刻、工芸などがある。
一芸に秀でる、と言う言葉は良く知られていますが、確かに一芸あれば、
大方何をやっても卒なくこなせるもの。
まして誰も及ばない超ハイクラスの仕事を、各分野に渡って残し、
それぞれに金字塔を打ち立てている大天才がなぜ核となる、絵画はやらなかった?
不思議も不思議!全く不思議。

蒔絵の人も、陶芸の人も、書も、まず絵が描けないといけません。
並みの人間で在ろうはずもありませんが、想像すら全く及ばない。
不思議な大名人なのです。


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