ま〜や行の日本の名画家

ま行の名人


松岡映丘 (まつおかえいきゅう) ↑ページのトップへ戻る
    明治14年 (1881年) 〜昭和13年 (1938年)  兵庫県生まれ


映丘は、8人兄弟の末っ子で、早世した3人の兄を除けば4人の兄たちは
傑出した人物ばかりでした。
松岡家は代々医家。父も医者であり、かつ、国学者、儒者としても一家をなしており、
絵心もあって、映丘の才は、父譲りと思われます。

長兄は、開業医であり町長も勤め、弟たちの出世を助け、親代わりとなりました。
三男は親戚の養子となり眼科医、さらに万葉研究の大家として知られ、
記紀、風土記などの国文学で知られた桂園派の歌人で、宮中顧問官、御歌所寄人、
明治天皇御集編纂にも従事した井上通泰でありました。
六男は、民俗学者として多大な業績を残したあの有名な柳田国男です。
七男は、海軍軍令部を勤めた後、文筆に優れ、言語学の研究を進め、
「日本古語辞典」「記紀論考」を著しました。
母は、かなり厳格で、映丘が、太平記など読んで寝転がって
後醍醐天皇の名を口にすると物差しや箒でたたかれたそうです。

大和絵を今に伝え、新興するという大きな業績を残した映丘。
その古典文学に対する造詣の深さや皇室崇拝を充分に頷かせる家庭環境でありましょう。

幼くして絵心を抑えられなかった映丘は武者絵に憧れ、
後に師事することとなる小堀鞆音(こぼりともと)描くところの武者絵を雑誌を通して、
飽かずに鑑賞、臨写していたそうです。

14歳で早くも画家を志し、橋本雅邦(はしもとがほう)に入門、
雅邦一家が、目を患い三兄、井上通泰の眼科にかかったのが、そのきっかけでした。
ところが、雅邦は、狩野派の最後の巨匠。武者絵に憧れていた映丘にとって、
どうにも意にそわなかったようです。

そこで、六兄、柳田国男の友人田山花袋にたのんで、
山名貫義(やまなつらよし)の門に変えてもらうのです。

山名貫義は、大和絵系、住吉派の最後の巨匠、当時、東京美術学校教授でありました。

橋本雅邦から、山名貫義にクラガエ?するということがどういうことか、
当時の事情をお話しすると、
映丘が志を立てた頃は、国を挙げて西洋諸国を手本とした改革が行われていた時で、
日本的なものを軽視する風潮がありました。
美術界にも、伝統的絵画より洋画をもって新時代の絵画とみなし、
大和絵などは国粋的なものとして振り向くものは殆どいなかった、のです。

そうした社会の気運、画壇の趨勢のなかにあっても、橋本雅邦は、
明治日本画の改革を推進する実力者であり、江戸狩野の系譜を代表する大きな存在であって、
それに比して山名貫義は、美校教授とはいえ、
既に取り残されようとしている住吉派系の作家、であったわけです。

せっかく、兄のお陰で、頭を下げて頼まなくとも、メジャーの先生と出会えたのに、
それを捨てて、わざわざ田山花袋にお願いして、マイナーな先生?にクラガエしたのです。
僅か14歳の少年が!
 
このこと一つとっても、映丘の大和絵に対する強固な意志と、
まだなんの裏付けもないけれども、その意思を支えたであろう大天才が、
ぎらぎらと燃えていた事は容易に想像されます。
  要するに、「武者絵描けなきゃ、いや!!!」
とばかりにクラガエ入門の後、本格的大和絵の修行に励んでいくのです。
56年と言う画家としてはちょっと短い生涯を通して、日本画新生の道を大和絵の中に見出し、
その事にすべてをかけてゆくそのスタートから明快な強い意志を持ち、
それは、終生ブレることはなかったのでした。

当時、節操のない洋化の波に抗い、伝統を守ろうとした岡倉天心ですら、
     大和絵の復興についての認識はありませんでした。
それは、天心がフェノロサの見識を受け継いでいたからで、
当時の欧米人にとってアジアの文明国は支那だけ、
日本文化についての知識は実に乏しかったのです。フェノロサの東洋美術の知識は支那中心。
支那美術を基準にして日本美術を見ているに過ぎないのが実情で、
支那美術には見られない大和絵には理解を示さなかった。のです。
ほんとの価値にまだ気づいていなかったんですネ。

天心、フェノロサは日本の絵画では唐絵=漢画の流れを汲む狩野派を重視し、
新しい日本画復興の本命に狩野派を充てたのです。
日本画革新の教授陣を揃えた東京美術学校において、大和絵は指導されることはあっても、
昔で言う唐絵。つまり狩野派流が、はばをきかせていた訳です。

それは何も天心、フェノロサに始まったことではなく、
支那画を唐絵と呼ぶのに対して、大和の絵、日本の絵、を日本画、と呼ぶ。
という通念で貫かれている日本絵画史では、大和絵は、平安鎌倉期に盛んになっただけで、
あとの殆どの期間は、唐絵の画派が主流を占めてきました。
その間大和絵は宮廷画家として漸くその系統を維持してきただけに過ぎません。
ずーーーっと、マイナーだったのです。

大和絵の真髄が開花したものが琳派であるという解釈もたしかにあるのですが、
琳派は、むしろ傍流であり、
ある種アバンギァルドな一面の表れであると言った方が正確でしょう。
ずっと長い間正統派大和絵は旧画風の踏襲のみで、
新生命に欠けるものと思い込まれて久しい状態だったのです。

そのような大きな潮流に対して映丘は、真っ向から抗い、
その画業の最初から大和絵の真髄を正面に打ち出すべく全精力を傾け、
全生涯を尽くしてそれを全うしようとしました。僅か14歳にして早くもそれを感じ取って、
自らの道を定めどんどん切り開いてゆくと言う素晴らしさをわれわれは学ばねばならないでしょう。

修行の中心は、“絵巻”の研究、模写でした。
春日験記絵巻。伴大納言絵巻。信貴山縁起絵巻。
などの模写。冷泉為恭(れいぜいためちか)、吉川霊華(かっかわれいか)、など、
先人大和絵の正統派を深く研究し、交わりを自ら積極的に求めてゆきます。
日本画の源は、平安鎌倉の絵巻物にある。と言う基本思考を貫いていっての事でした。

後に、母校、東京美術学校の教授として迎えられ、幼い時に憧れた、
小堀鞆音(こぼりともと)教授の下で、若き画学生達に、
大和絵を教授しつつみずからも学んでゆくのですが、
さてこれから円熟の境地と言うころに志半ばで亡くなったことが、実に悔やまれます。
満56歳。もうあと10年いや、20年何としてももう少し、
頑張ってもらいたかったと切に思うのです。現代日本画の巨匠といわれる
高山辰雄、杉山寧、山本丘人、橋本明治、らは、皆、映丘の愛弟子です。
   ホントに凄い人だったんですね。


     

春光春衣 1916年
     

住吉詣  1913  屏風    源氏物語 澪漂(みおつくし)より題材を取る。沖の船から光源氏の一行を望見する明石の姫君
     

山科の宿  1918 絵巻  今昔物語「高藤内大臣語り」を主題とする。高藤は右大臣藤原冬嗣の孫。ある日、高藤が鷹狩りに出かけ                        、郡の大領宮道弥益の家で雨宿りした折、弥益の娘と契りを結ぶ。6年後再び訪ねると幼い女の子がいた、                         これが彼の娘で、宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を産む事になる。草深い田舎家と京の殿上人との対比、                         が床しい。
      

右大臣実朝  1932  公暁によって命を絶たれるその朝、牛車を降りる実朝。
      

池田の宿   1921  後醍醐天皇の朝臣、貴族、日野俊基が捕らえられ、鎌倉に護送されようとする悲劇。
      

富嶽茶園之図  1928  三の丸尚蔵館所蔵。天皇へ献上された作品。
      

伊香保の沼   1925   戦国時代上野国緑野の城主、木部某の夫人が元の蛇身にかえり、榛名山の伊香保沼に入水した伝説を主題にしたもの。                      入水すれば元の蛇身に還り、人間にはもどれない。




  


円山応挙(まるやまおうきょ) 
↑ページのトップへ戻る
享保18年1733年〜寛政7年1795年



 丹波国穴太村(あのおむらー京都府亀岡)の農家の次男として
江戸時代中期に生まれています。
穴太衆と呼ぶのは、古代から繋がって来た石工の技術集団で、
近江の比叡山山麓にも穴太の里があり、
今でも、坂本の町には彼らの作った石垣が残っているのですが、
応挙を知る上でこの事は、覚えておいて良いのかも知れません。
生い立ちなど良く分かっていないようですが、志をたて、京都にでて、
狩野探幽の流れを汲む石田幽汀と言う絵師に学んでいます。
この絵師は、宮中の御用絵師であり、それなりの地位もあったようですが、
近代日本画に多大な影響を与えた程の大名人の才が、
この師で満たされていたとは、到底考えられません。

 当時流行り始めた、覗きからくりの絵付けをしていたらしく、
旧来の画技を磨きながらも、新しいものにかなり敏感な青春を送ったことでしょう。
とにかくこの方を名人と言わずいったい誰を名人と呼ぶのか?
と言いたいくらいの大名人で行くとして可ならざる無き作風は、
全くお手本と言っても良い。洗練の極み。
雅、侘び、寂び、日本文化の要素すべてを揃えた上にナオ華麗!
怖いものなしの実力です。

 探幽の描きぶりを参考にしたことは良く知られていますが、
全く独自の写生観、は驚くべきものがある。
現代の京都を中心とする関西系の日本画家には、
いまだに応挙の影響が色濃く残っていると言えます。
進取の気概に溢れている事や、真っ向勝負の写実を作画の基本にすえる所など、
この200年、京都画壇は、ある意味において変わらない。
さらに京都文化は北前船によって特に日本海側に伝わり、
秋田佐竹藩には小田野尚武と言う応挙の写実を体現しようとした画家も現れ、
秋田蘭画につながっている。ケレン見のない、
正統派写生の創始者の面目躍如たるものがあります。

 現在のように高性能の映像機器を当たり前のように誰でも持っている時代に
この名人がいたらどうなるでしょうか?
彼の時代は墨、紙、筆、たったこれだけで、
花も山も動物も、海も木も人も、皆あらゆる物象を捉え、
目を見張る写生表現で、すべての人を魅了していたのです。
コンパクトカメラひとつあったわけではありません。
見たことのない虎さえ、その皮だけで想像して、
かの金比羅山のフスマに描いてしまったのです。
矢立(やたて)といって、鉛筆一本あるわけではない時代の便利な携帯用筆記具。
和紙を閉じた写生帳。肌身離さず懐にいれて、目に触れたもの、興味を持ったもの、
次々に描き残していったことでしょう。
まるで江戸時代の歩くハイビジョンカメラのごとく。

 さらに、センスの良さ、洗練と言う言葉はこの人のためにある。
国宝雪松図、金泥の空間を鮮やかな刷毛ぼかしで描きいれ、
濃墨だけで描いた大小三本の松を左右の六曲屏風に収め、
雪の白は、紙の地色。大雪をかぶった見事な松の厳かにも凛とした空気感を、
墨と金泥だけで表現し尽くしています。この作風は応挙独特のもの。
彼の最高傑作である金比羅山表書院の障壁画にも同じ表現が施されていて、
やはり紙の白が、大変重要な役割を果たしています。
あまり知られていないこの金毘羅宮の書院は、若冲も担当していますが、
応挙は4室を担当し、鶴の間、虎の間、2間を一気に書き上げた所で、
京都のアトリエが全焼するという災難に。
下図から何から皆燃えてしまったのだそうです。
体調不良も重なってか、5年後ようやく、残りを。
そして最後に描きあげたのが、畢生の名作、山水の間でした。

 書院は林泉に面していて、実際に池があり、小川が流れています。
そのことを計算にいれ、窓外からの水音の源を滝として描きあらわし、
次いで流れ出る本流を深山幽谷の景に溶け込ませ、やがて地を潤し、
七賢の間、虎の間、鶴の間の水へと行く手が次々とつながって、
一部屋一部屋が独自性を保ちながらも、一つの連続性を持ち、
そこにたたずむ人をして陶酔境に導くと言う離れ業を見事にやってのけています。

   写生と言う確固たる基礎に立った上で洗練を極める。
まるで、大昔から日本中の石垣を築き続け暮らしそのものを支えてきた
穴太衆の巧みの伝統が時空を超え子孫である天才応挙に集約されたかのようです。
この半年後彼はもうこの世の人ではありませんでした。




や行の名人


横山大観(よこやまたいかん) 
↑ページのトップへ戻る
明治元年1868〜昭和33年1958





大礼服姿の大観

 
茨城県は水戸の生まれですから、
勤皇精神は若い時分から身についていたと思われます。
長男の生まれでありながら二十歳の時に横山家を継いで
名を秀麿と改めました。日本画家と言えばまずこの方を思い出すぐらい有名で、
日本画家の代名詞と言っても良いかもしれません。
事実、画歴をざっと見ても分かる通り、東京美術学校の第一期生であり、
日本美術院の創立同人であり、第1回文化勲章受章者であり、
この方の為に近代の日本美術界は存在していた、と言っても過言ではありません。
あの歌姫、美空ひばりが昭和時代を彩る大スターとしてその役割を全うし、
平成の御世となった途端に亡くなった様に、
近代の日本文化を背負って立つ大牽引車の役割を担ったのです。

 近現代文化史は、惨憺たる見境の無い欧化史と言わねばなりませんが、
大観先生はその中にあって毅然として逆風に耐え、和の心を、
大和の魂を懸命に伝える使命を果たされたのだと思います。
『芸術は個の主張である』と言う概念は紛れも無く最大の欧化の表れであって、
我が為に芸術することであります。勿論人間である以上、
我が為に生存することに違いはありませんが、
それだけに留まってはならないのが本物の文化。
歴史を超えたところに到達してこそ、日本文化と言えるのですから、
本来『我が為の芸術』は本物の文化にはなりきれない、未だ幼稚な段階であって、
その先に普遍性があり、さらにその上に、悠久の大儀がある。

 大観先生の作品群には、悠久の大儀がある。
ケチ臭い『個の主張』なんか吹き飛んでしまう、文字通りの『大観』を獲得している。
今でも大衆を引き付けてやまない魅力は、時代によって尽きる様なことは、
絶対にありません。全国どこの美術館に行っても大観を持っているかいないかで、
館のグレードが決まると言う話すらある。コレクターの目標は常に大観であり続けています。

   相撲の世界でも本当に強い力士には、確固たる悠久の大儀に生きる心意気がある。
我はタジカラヲの子孫なり。相撲道は、太古の昔より続く神事なりと言う自覚。
これがないと幾ら素質に恵まれ、環境が整っても大横綱にはなれない。
何十回優勝したとしても、どんな記録を作っても、大横綱とは言わないんであります。
もっともこの心意気なくしては大成する筈ももありません。
逆に言えばこの心意気さえあれば、多少劣った才でもある程度は
克服してしまえると言えましょうか。

 水戸学と言われる尊皇攘夷の志士として活躍した実父。
大観先生は生涯、この父の薫陶を拠り所としていたに違いない。

 最晩年、食事と同じに飲んだ、と言われた酒量は激減し、
作品にもその精彩を欠いたとき、大観老いたるか、との評もありましたが、
実は、戦後の 『すべからく利に付け!』と言う風潮にあらがいきれない、
欧米化に対する孤軍奮闘の果て、であったのかもしれません。
初の文化勲章受章者でありながら、これまた初となる芸術院会員を生前に辞した事実、
がそれを良く物語っていると思われるのです。

 しばしば気韻生動と言い、さかずきを指ではじいては、この音が描けるか?
と後輩を叱咤した大名人、横山大観を越えること。超えないまでも迫ること。
今後数世紀に渡ってこれが、絵師たちの一番の目標であり続けることでしょう。
いつの時も、今一度大観先生の巨大な足跡を見直すべき時であろうと思います。





流燈





柿紅葉





夜桜





皇大神宮




安田靫彦(やすだゆきひこ) 
↑ページのトップへ戻る
明治17年 1884年東京生まれ。昭和59年1984年 享年94歳





師である小堀鞆音名人についたのが14歳。
大名人に僅か14歳の天才が出会う。
これが、どれほど大きな意味を持っているか知れません。
才ある若者が物心つく年齢に、本物を知る。
どれくらい幸せな事か、、、、、、、師の最後も看取り、三時間かけて遺影を写生。
今でも素描の傑作として残されています。

どんなにがんばっても、人生の大半を費やしたところで、
出会うことの出来ない人は、出会えない、本物との触れ合い。

まして、自分の好きな道の大先達に幼くして出会えるとは、、
安田少年の未来はもうこれで、約束されたようなものでした。

が、天は試練も与えています。
幼少の頃からの病弱に加えて、肺結核と言う重病でした。
24歳の冬の事。
しかし逆境にあっても才は認められ、かの岡倉天心に引き立てられて、
横浜の豪商、原富太郎の援助を受けられるように。
原三渓(はらさんけい)と号したこの人は巨富を惜しまず、芸術家養成に尽くした
大パトロンだったのです。

早くも28歳で指折りの代表作とされる、“夢殿”を描いています。
東京国立博物館に収蔵されているこの作品は今でも時折出陳されますが、
実に用意周到、筆意の簡素。精妙なる色彩。
靫彦画の確立を高らかに宣言しています。
そして、天心没後、再興院展の創立同人に加わります。

絵ばかりではなく、良寛の書に感心をはらうなど、
日本の歴史の大局と細局とを、病と相談をしながらではありますが、
深く深く学んでいったのです。

57歳の時に、名作“黄瀬川の陣”が生まれます。
義経が兄頼朝の下へ馳せ参じた、その初々しさが、昇る朝日のように
揚揚と溢れ出してしまう様な見事な傑作です。
その後芸術院会員、文化勲章、院展理事長など、
画家として位、名声を極めた上、さらに94歳の長寿まで全うしたのです。

実力どおりとは言え、誠に恵まれた画家の生涯を送られたと言うべきでしょう。

伊豆、修善寺の名旅館の一つに新井旅館があって、
その岩風呂は、安田先生の設計になる天平風呂。
池の中に建つ旅館とて、浴室から池の中を泳ぐ鯉が見える斬新さはなかなかのもの。
病を得た安田先生が、湯治に訪れたゆかりの旅館で今も人気。
ぜひ一度お越し下さい。大観の作品もありますよ。










黄瀬川の陣





小楠公





日食





額田王




 ↑ページのトップへ戻る